[コラム]『赤ずきんちゃん気を付けて』~ ワカルとワカラナイの間 ~ 春光の日に

ワカルとワカラナイの間〜春光の日に

 

 

塾の新6学年が始まって1ヶ月が過ぎた。

今年の受験もはるか遠い昔に感じる。卒業後に塾に訪れた子の背が伸びて急に大人っぽく感じる。きっとこれも私のノスタルジー、受験のための日々ではあったけれど、一人一人の個性に触れて共に考え、学び、送り出すことができた。輝く中学時代を過ごして欲しい。

 

とっくに新学年も波に乗り始めていることにハッとする。

この子はこういうところを◯◯できればもっともっと良くなるのになあと、持ち帰った答案を前に、どんな風に成長させあげたら良いのか考えては授業で伝える、この試行錯誤。

ぼんやりしていてはいけないのだ。Time is money.

もうとっくに入試までカウントダウンなんだ。

 

私がこの時期大切にしていることは、「どこまでわかったのか明確にする」ということ。

算数は答えがばっちりはっきりする科目だから、正答以外は当然×になる。でもその×を、よく見てほしいのだ。どんな×なのか。

 

 

あと一歩の所で計算ミス→せっかちに多い。解法の見通しが立ってもう少しでゴール、の所で足がもつれる。そんな短所に気を配ろう。

いつも同じような間違い→計算の仕方そのものに難がある、あるいは根本的に図の描き方の訓練が足りていない、苦手を回避しているのですっぽり抜けている、など。基本的なことが大切なのです。

手も足も出ない→今は仕方ない。わかること、できそうなことを確実にすることから始めよう。

 

 

生徒が質問に来る。必ず聞く。

どこまでやったの?どこまでわかったの?

昨日今日学習したばかりのことだって理解できないこともある。理解には個人差もある、それは仕方のないことだ。

でも、「この問題を解くときにするべきことは何だったのか」、それは理解できなくてもおぼろげながら覚えているはずだ。(もし全く思い出せないのなら、それは全く授業を聞いていないということです)

線分図を描くのか面積図を描くのか。相似を描き出すのか(発見できなかったらそれも仕方のないことだ。授業中にコツをつかむしかない!図形は目だ!)、ベン図なのか。

何をするべきか、間違っていても完璧じゃなくても構わない。

わからないけれど言われた通り真似してやってみる。途中まで図がかけて悩むことができれば。今の時期はそのくらいラフで上出来だ。(計算と単位換算はきっちりマスターしてね!)

得手不得手、習熟度合いで個人差はあるだろう。でも悩んだ分、それはいつか必ず自分にフィードバックされて、自分を支える力になる。

わかった!と、頭の回転が早くてもそれだけじゃダメ。そういう人はわかったら書く。次につなげる。どこまでわかってどこからわからないのか。わからなくなったその瞬間、それを自分に刻み込まないと、あるレベルの問題までは解けるけどそこから先はからきしダメ、まるで解けなくなる。そろそろ志望校も決定しようかと思う6年の後半で伸びなくなる。

 

 

ワカルこととワカラナイことはいつも大きくかけ離れているわけではない。あと一歩、手を伸ばせばすぐに届く花のように。図も描いた、式も立てた。でも、ワカラナイ。それが本当の「ワカラナイ」。ワカルこととワカラナイこととの間には深い溝が走っている。それを、どうするか。自分自身の図や式が、手がかり。飛び越えるのは子供たち。辛抱強く忍耐強く見守る。じわじわと溝を埋めていく。そんな6年の秋になりますように。

秋の生徒の青写真を眩しい春に思い描く。

 

 

さてそれでは春に私のするべきことは。

ワカラナイ手前まで来るために、必要な図の描き方をマスターさせること。意味がわからなくても描いていくうちに慣れてできるようになってくる。その場所に来られるよう、足場を固めてあげること。

 

この時期の土曜日の授業は、入試問題を題材にしながら、「手を動かす」「図を描く」ことを主眼に進めている。できる限り生徒にも前に出てホワイトボードに描かせる。大きくわかるように描く、みんなの前に晒す。その経験が実はとても有効なのだ。間違うことは恥ずかしいことじゃない。間違いをそのままにしておくこと、やらないこと、間違うことすらできないことが、もっとも避けたいことなのだ。間違いから学ぶことができればそれは一人の間違いではなく全員の理解に昇華する。友達と自分の対比から身近に新鮮に発見できることもあるのだ。

 

 

不慣れな一歩を踏み出そう。

そんな、春だよ。少しエンジンかけようね。