[コラム]『赤ずきんちゃん気を付けて』~タイの花売り~

タイの花売り

バンコクを旅行していたときのできごとだった。
滞在三日目にもなると夕方の激しい雨の気配も感じ取れるようになる。
もわっとした甘い花の香りが立ち込めたかと思うと、たちまち空は今にもはち切れそうな分厚い雲に覆われ、あっと思ったときには大粒の雨が道をたちまち黒く染める。観光客は困りながらもお祭り騒ぎのようにはしゃいでどこかの店に逃げ込み、屋台のおばちゃんは別に表情一つ変えず特に濡れることを気にする風でもなく、小さな軒でじっとやり過ごす。長く続く雨ではないことをよく知っているから。
私も小さな店の軒先で雨の止むのを待つ。
ふと向かいを見ると、当時まだタイにはそれほどなかったセブンイレブンの店先に、女の子が座りこんで泣いていた。9歳か10歳くらいだろうか、バンコクの中華街の、あまり衛生的とは言えない縁石に泣きながら座ってびしょ濡れになっている。
膝の上には銀のトレイに、白い花輪がたくさん。
隣で雨宿りをしていた西洋人の若いカップルが、「見て、あの子大丈夫かしらと」と話している。そんな光景にも慣れっこであろう現地人もどしゃ降りのなか足早に通り過ぎようとして、気になったのか少女に近寄り何か話しかける。少女は首を振りまた泣き出す。話しかけた青年も、こりゃ仕方ないよなといった風に去っていく。
あの花をすべて売るまでは家に入れてもらえないんだな、と私は理解した。
どうしよう、子どもの売るものを買うときは、その子どもの仲間が虎視眈々と見ていて、観光客が財布を出すと同時に集団で奪い取るという手口が多発しているから注意するようにとガイドブックに書いてあったな…
一瞬躊躇したけれど、いたたまれなくなって道を横切り、少女から花輪を買った。ジャスミンか何かの白い花輪だった。(タイは仏教国なので、街のいたるところで花飾りを売っている)
少女は私を見て手をあわせた。
一人、また一人、観光客が花を買っていく。太った西洋人の老夫婦が最後にすべての花輪を買い、5分とたたないうちに花輪はすべて売れた。
少女は立ちあがり、歩き始めた。
目で追うと、少し先に小さなライトバンが止まっている。痩せた男が手招きをする。少女は銀のトレイに乗ったお金を恐る恐る男に差し出す。
男は満面の笑顔で少女の肩をぽんぽんと叩き、少女の泣き顔は一瞬ポカンとしたあと、ぱっと明るく輝いた。

『やればできるじゃないか、それでいいんだ、そうやって稼ぐんだぞ』

そう言っているのが聞こえたようだった。

ライトバンの中には同じような年頃の子どもが何人も乗っていて、少女が乗り込むと男は乱暴にドアを閉め、ぬかるんだ道を去っていった。雨はもうやんで大きな虹が出ていた。

あの子には恐らく帰る家がない。辺り一帯を取り仕切る親方の元で仕事をし、みんなで暮らしているのだろう。日本とはかけ離れた現実にまだ若かった私は少なからずのショックを受けた。でも私が一番驚いたのは、そんなことではなかった。
あの少女が哀れみを買うために演技で泣いていたとは思えない。今日が初仕事だったのかもしれない。本気で泣いていた。だから現地人ですら声をかけたのだ。心配した観光客が花輪を買ったのだ。
でも、あの痩せた男が少女を労ったとき、少女は一瞬で悟ったのだ。

『なあんだ、これでいいのか。こうすれば花は売れるんだ。次も売れなかったら泣けばいいんだ。』

環境が人を変えていく。子供が大人のたった一言で、ある意味で大人になる瞬間を見てしまって、どの人間にも抗えない運命があるのだなと思ったのだ。

大人のたった一言で子どもの心は形を変える。
私の何の気なしに放ったほんの小さい一言が、子どもを曲げてしまうかもしれない。
子どもの心を暗くすることのないように気を付けているつもりだけれど、時にはきついことも言わなければならないだろうか。北風と太陽なら太陽になって、子どもが自発的に気づいてより良い行動をとれるようになってほしいけれど、こちらも人間だから時には北風も吹かせてしまう。
サムサノナツハオロオロアルキ
すべてを暗く閉ざしてしまうようなやませを吹かせてはならないのに。
「これは正しいこれが正しい」と思いこんだときほど、「子どもがやらないことできないこと」が気になる。
「常識とは 18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
そう言ったのはアインシュタインであっただろうか。
押し付けてはいけない押さえつけてもいけない。でも、わかってほしいこと知らなければならないことはたくさんある。それは勉強のことにとどまらず、生活全般においても。
「勉強よりも大切なものがある」とは教室の壁にある言葉。だから「勉強よりも弁当」とよく言っている。命の糧だし、作ってくれたお家の人の気持ちに感謝して「残さずきれいに食べなさい」と。どうか子どもに伝わりますように。

母は怒りたくて怒っているのではない。登校する1時間前には起きてしっかりご飯を食べてほしい、新学期始まって一度も守られたことのない我が家の約束。3日前から警告してもだめだった今朝、娘と大バトル。私は冬将軍になってしまった。
「理解して身に付くには時間がかかることもある」ということを肝に命じなければならない。生徒に対しても、自分の娘に対しても。

大音響のラジオ体操(?)の音楽で目を覚ます。
何事かとカーテンを開けると、通りいっぱいに、なんのイベントかみんなでお揃いの水色のTシャツを着て踊っている。早朝なのにもう暑い。都会の汚れた空の向こうの方に、入道雲が立ち上っている。

ベッドサイドボードには昨日の花輪。薄暗い部屋にもったりと甘い香りを放ち続けている。しおれた白い花に、小さな蟻が1ぴきじっと止まっていた。
あの少女は今日もどこかで花を売るのだろうか?

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