むかし、むかし。〜「赤ずきんちゃん」考察
“Mujina”
Long long ago.There was a long slope in the city of Edo.
It’s a very lonely place.
People stayed away from the slope after dark.
People stayed there only in the day.
今でも覚えていることがとても不思議。
中学2年生。英語の暗唱テストで教科書の文を覚えなくてはならなかったのだ。
きっと過去形を初めて習った時期、梅雨前のムッとした風が陽に焼けたカーテンをふわっと揺らした昼休みの光景すら思い出す。
覚えた?まだだよ!まずいよ不合格だったら!今日が期限だよ、これ逃すと成績下がるよ!
友達同士でテストをしながらやっと覚えた英文。何で今でも覚えているのだろう。
むかしむかし 江戸の町にながーい坂道がありました
それはとても寂しいばしょでした
人々は暗くなってからはそこからはなれました
人々は昼間の間だけそこに滞在しました
下手くそな英文和訳。それでも、「物語」を英文で読むのは初めてで、なんだかワクワクした。とりわけ冒頭のLong long ago がひときわ珍妙で面白く。おちゃらけた男子が妙に入れ込んで臨場感たっぷりに「ろんぐ、ろおんぐ、あ、ごう!」と読んではクラスを沸かせていた。
むかしむかし、あるところに‥
桃太郎もかぐや姫も、白雪姫も長靴を履いた猫も世界中どこでも出だしは同じ。シンデレラも三年寝太郎もわらしべ長者もブレーメンの音楽隊もハーメルンの笛吹き男も舌切り雀も、グリム童話もイソップも今は昔、むかしむかしのお話。
それなのになぜ何度聞いても引き込まれてしまうのだろう。何度でも同じ本を読むように、子供はせがむのだろう。
むかしむかし、のお話なんだけどね。単純でわかりやすくて。
ああダメだよワラで家を作るもんじゃないよすぐに壊されてしまうでしょうとか、竹の中から小さな女の子が出てくるなんてとか、大きなつづらを選ぶなんて欲の皮が突っ張っているなあとか。側からみると時折悲哀にも滑稽にも思う行動をとったり、ありえないと思う不思議なことが自然に起こったり。
しかしよくよく考えてみると「自然と思っていたことの中に実は不自然なこと」が潜んでいる、巧妙に見え隠れする。破綻もほつれもなく終わっているように見える物語は実は矛盾と疑問と不思議を内包している。
「赤ずきんちゃん」とて例外ではない。
このパンとチーズとワインを病気のおばあさんに届けてちょうだい。森にはオオカミがいるから気をつけて行くのよ。決して寄り道をしないように。
目を閉じて想像してほしい。木漏れ日くらいは針葉樹の間から差し込むだろうか。シンとした深い緑の森に真っ赤な頭巾はよく映えるだろう。小さな赤ずきんちゃん、オオカミに気をつけてと言うなら母親は赤い頭巾などかぶせるべきではないのだ。迷彩柄の頭巾をかぶせてさながらランボーのように顔も泥メイクを施したほうがいいのかもしれない。もし本当にオオカミから身を守って無事におばあさんの家に行きたいのであれば。
それなのに真っ赤な頭巾を被せる、全く反対のことをする。この母親の心理は一筋縄には説明できない、深くて何か黒い理由があるのかもしれない。母親自身の母性よりも今後女性として花開く娘への嫉妬だとか、何とか。きれいな頭巾を被せておいて寄り道しないで、とは。しゃなりしゃなり森を歩く赤ずきんちゃんに、危険がないわけないではないか。そんなことも想像もつかないほど浅はかな母親像を描きたかったのかとか、何とか。
案の定悪いオオカミが声をかける。
どこに行くの?おばあさんの家にお見舞いに?それならきれいなお花を摘んでいくといいよ、おばあさん喜ぶよ!(オオカミは先回りをしておばあさんを食べる。そして待ち伏せして赤ずきんちゃんも食べるという算段。じゅるっと舌なめずり。)
お母さんとの約束なんてオオカミの誘惑の前では風の前の塵に同じ。そのせいで赤ずきんちゃんはこの後オオカミに食べられてそれでも狩人に助け出されて、お母さんとの約束を破ってはいけないねという教訓を得るわけなのだが、果たしてこれはどういうことなのだろうか。
赤い頭巾を被る段階で母から離れて魅惑的な冒険に身を投じたい、そんな風に思えてならない。最初からわざと目立つ赤い頭巾を被って誰かの、何かの目に止まるのを待つ。中学生が流行りの格好をして竹下通りを何往復も歩くのと一緒だ。
オオカミに促されたから、きれいなお花があったから、その花を摘みに森の奥に入ったのではない。初めからきれいな花を摘みに森に入ったのだと反対に読んでみると、この物語はまたグロテスクなほど色鮮やかに読めるではないか。母親との約束なんて破るに決まっているという思春期の女の子の心の揺れ。危険な誘惑がいかに魅力的か。母はそれをわかっていて赤い頭巾を黙認したのか否か。気をつけてね気をつけてねと見守る読者を翻弄し、昔話というものはどのように読んでも正解は一つではない、そんな懐の深さがある。読む人により年齢により、光の当たる場所は違う。
図形ほど、解説を読んでもできるようにならない単元はないと思う。
「△ABCと△DEFは相似なので、‥ふむふむなるほどね」
そんなことを理解したところで(理解できないよりはマシですけど)、次の問題には応用できない。だって、発見できなかったことが問題なんだもん。発見された後の解説をされたって後の祭りというかなんというか。もちろん発見した後は緻密に解いていかなければならないのですけど。
だからこそ、最初から相似を見つけることから始めなくてはならない。①砂時計型②親ガメ子ガメ型。この2つをまず見つけにかかること。そこからでしか始まらない。その上で重なり合って複雑になる相似の問題、あるいは補助線を引かないと相似が生まれない問題が解けていくようになる。こういうタイプの問題が解けるようになってくると、人より有利な展開になって合格はぐっと近づいていくのですけれどもね。
まずは何はともあれ、①②の相似を見つけようとして欲しい。あ、こんなとこに相似があるのねーなんて悠長なことは言っていられないのである。相似はある。絶対に。(ない場合は頭を切り替えてすぐに別のアプローチです!)
メネラウスの定理、円と結びついて方べきの定理。相似は(特に私立の)中学の好物である。高校では三角関数。苦手意識のある人には残念なお知らせだが、相似は数学とは切ってもきれないのだ。
腹をくくって、諦めずに「まず相似を探す」ことをしてほしい。棚からぼたもちはない。待っていてもダメ。見つけようと思って見つけてほしい。
きれいな花があるから摘むのではない、きれいな花を摘もうと思って赤ずきんちゃんは森の奥深くに分け入ったのだよ!
ぽかんとする生徒の顔を見るのが好きで、相似の授業の時は必ず話してしまう。そんな時はややこしい問題で大抵煮詰まっているので少し脱線、ついでに赤ずきんちゃんの話をしてワイワイガヤガヤ。みなさん雑談と思うでしょう。心の中では「どうか相似を見つける重要性が印象付けられますように!」と、オオカミの心で虎視眈々と思っているのですよ。6年生になってカリキュラムはすでに4回目、手を替え品を替えたくさんの課題を与えてきたけれど、皆さんは少しずつ螺旋状に上昇してきたね。まだまだ伸びる!
しめしめ、作戦が功を奏してきたぞ。今日も私は下心いっぱいで舌なめずりをしていますよ。じゅるる。