~覆水盆に帰らず~
「娘さんは斜視です、複数回の手術が必要です」
そう言われたときのショックは、いまだに忘れることはできない。その時の私が感じたことは、
何で?
ではなく、
やっぱり、そうなのか、
ということだったからだ。
周囲の友人、親戚に、娘の目はちょっとおかしい気がするよと言われ続けた、幼少期。子供眼鏡を扱う眼鏡屋の友人に勧められて訪れた眼科医では、経過観察。
ほら、幼児性の遠視かも、経過を観察しましょうという診断だったよ。お医者さんが言うなら大丈夫、大丈夫…
そして幼稚園の眼科検診では、すぐに他の眼科医を斡旋され、そこですぐに大学病院に回され、結果、手術。
自分の子は正常範囲内で普通だと、思い込もうとしていた。私も薄々、なんか変だな、この子は見えているのかな、と思ってはいた。でも、そんな思いを、はじめに訪れた眼科医の、「経過観察」という言葉で蓋をした。
時間が解決する。この子は正常だ、普通だと。
2回の手術で斜視はなおった。でも、生まれてこのかた5年、曲がった世界を当たり前と生活していた。斜視による、首の傾きもあった。背中の筋肉も左右で大きく違ってしまっていた。
幸いバレエを習わせており、その先生が娘の体をまっすぐにするよう、細心の注意を払ってくれている。でも、こう言われた。
5年かかって曲がったものが直るには、最低5年かかる、直ればいいほうだ、と。
中学受験は塾選びで決まる。
みんなが口を揃えていうことだ。
子供にあった塾に通わせたいと願う一方で、この塾ならこの子の力を引き出し、「レベルの高い」学校に導いてくれるのではないだろうか、と期待もする。それ事態は間違いではない。どんな親も、私とて、欲は深い。少しでもいい人生を生活を学校を。そう願わない親はいないと思う。
そして次に言う。
この塾で頑張ってみようか、ちょっとカリキュラムはきついしお友だちと遊ぶ日も習い事の日も少し減るけど、応援するから。
大変になったらやめればいいからね、勉強したことは無駄ではないから。
苦言を呈させていただこう。
大変だから辞める、頃には、子供は傷ついている。「この塾についていけなかった、自分は勉強ができない、こんなにも覚えることがあって自分はできなくて、…」
やめればすむ話ではない。
子供の時間は取り戻せない。
その子がどれだけのことを犠牲にしたのか。あるいは、犠牲にしなければならないと思ってきたのか。その結果得られたのは、「3.14×15の答えは、暗記せよ!」「ニュートン算は必須だぞ、絶対にできるように!」という、ありがちで間違ったつめこみだ。
体の歪みは直すことができる。外側から見えるからだ。少なくとも、正しいと思う方向に導くことはできる。かつて娘がそうだったように。目を直し世界をとらえ直し、これがまっすぐだよと鏡の前でずっと首を真っ直ぐに保ち続けてまっすぐを覚えさせ、首を支える筋肉を鍛える。そう導いてくれる師に出会えたことは幸運だった。
頭の中、心の中を見ることは難しい。
そんなやり方もあるのか、でも僕はこうやったとしがみつくこんがらがった過去の知識を崩して、シンプルで応用のきく柔軟な思考をさせることは極めて困難だ。
わかったふりをすればこの場を乗りきれる、わからないと苦悩する姿は見せたくないと、にこにことした表情の裏に隠れてしまう。そうなるともう、私は近づけない。
消耗しかしないような勉強なら、いっそしない方がいい。荒野なら耕せばすむ。耕して肥料をあげて種を巻けば、時間がかかっても芽吹いていつか花は咲く。
でも一度、間違った開発をされたら、それは戦場。撤退したあとも地雷だらけ。不必要な公式で頭はいっぱい。知っていることを当てはめようとするだけのテスト時間。思考なんて、あってないようなものだ。正そうとしても邪魔する過去の勉強方法や、本人の見栄、こだわり。初めが肝心、純粋な頭にストレートに入ってしまった知識。
この世には無駄な勉強というものがあるのですよ、お母さん、お父さん。
現代教育学院の子は元気だ。
間違ってもめげない。何で?と聞いてくる。(この件については夏休みに話したんだけどなと思うけど、ぐっと我慢、これがこの子と算数との出会い、やっとこさ興味をもって聞いてくれて純粋に考えて自分から出た疑問、大切にしてあげよう)6年の冬に元気がなくては困る。これからが勝負なのだ。
数多くある中学受験塾。合わなかったらやめればいい、と、軽く言ってくださるな。
合わないやり方で育てられたらどうなるか?
それは育てられてからじゃないとわからない。でも、わかってからではもう遅い。取り返しはつかない。
覆水盆に帰らず、ですよ。