[コラム]『赤ずきんちゃん気を付けて』~失せ者→出ず 待ち人→現れず~

失せ物→出ず 待ち人→現れず

娘がバタバタと階段を駆け下りてきて、行ってきます!と慌ただしく出かけていく。
やれやれ夏休みも終わったか。いつもの朝の風景。今年は短い夏休み、続けている習い事にも休まず通い、遠方の祖母の家にも訪れ、さすがに中学生なので夏期講習も参加し、最後にはなかなか仕上げられない読書感想文とポスターが残り。夏休み最終日の夜はなんの因果か美術は苦手だった私がポスターの色ぬりを手伝い、ダイニングテーブルに広げた絵の具をどかしつつ主人の夜ご飯という突貫工事になった。宿題代行業者が流行るのもよくわかる。まとめて書かれた夏休みの3行日記「夏休みの栞」に保護者感想を書くころには、私は結果はともかくやりきったアスリートの心境であった。
夏休みが短かかろうと受験はやってくる私の生徒たちにも最大限工夫を凝らした授業になるよう、あるクラスはこまめに小テストをして、あるクラスには重量のある問題を一斉に一問づつ与えてハードルを上げていった。これからいよいよ過去問へとブラッシュアップ、最終的な穴をどんどん確認していかなければならないが、とにかくここまでは夏休みの短さも影響ない仕上がりになったと思う。教師としてもやはりやりきったアスリートの心境である。(秋以降の課題は息をつく間も無くやってくる‥)

そして仕事と家庭を優先させると自分のことは当然後回しになる。
髪も切りに行きたいなあ、コロナついでに途切れてしまっている趣味も細々とで良いので再開させたいしなんてつらつら考えつつも娘が出かけたあと片付いていない部屋のソファーでただただぼーんやり動けないでいる。

こういう時は身近なところからなんとかするべし。レシートの溜まってしまったおサイフの整理を始めた。
期限切れの何かのサービス券、一度しか行ってないしもう行かないなと思う店のスタンプカード(たいてい洋菓子屋)。出てくる出てくる要らないものー。の、中から、ころっと犬の絵がついた小さな袋が出てきた。
「こんぴら狗の 開運みくじ」
香川県金刀比羅宮の去年のおみくじだ。
主人は岡山出身、子供の頃から毎年必ず訪れ、1368段上った奥社でその年のおみくじを引くという。大人になってからも季節問わず年に一度は詣でておみくじ。こうなるともう生きていくおまじないのようなものだ。私も何度か訪れたがここのところ数年はご無沙汰してしまっている。それなので、私の代わりに主人がおみくじを引いてくる。時には娘の分も。
引いたおみくじはお財布に入れて1年を共に過ごす。次のおみくじが来たら交代する。これももう、私のおまじないにもなっているなあと、財布の中で少し擦り切れた袋から小さい紙を出して広げる。

末吉
失せ物→出ず 待ち人→現れず

去年はあまり良い運勢ではなっかたのだな。
‥でも、最近の私は「失せ物がある」ことも忘れてしまうし、失せ物そのものにも気がつかないことだってある気がする。そしてもはや「待ち人」なんてドラマティックな響きの存在は縁遠いし。
運が良かったのか悪かったのか、そんなこと関係なく過ごしているなと気がついた。
はっ、これが年をとって図々しくなるということなのかしらん、もっと繊細に敏感に過ごしたほうが良いのか‥いやいやそんなことはない。そんな心持ちでいたら子育ては厄介なものでしかなくなる。親の思う通りになるはずのない子供に年中イライラを募らせるしかなくなる。
失せ物は出ないし待ち人も現れないけど、それを気にしたからといって解決するものではない。気にすれば気にするほど、待てば待つほど結果は得られない。存在しないものを漠然と期待を込めて待つことは徒労である。小さいことには目をつぶって、ある程度流していかないととてもやっていられない。ティーン・エイジャーの女の子の母親なんて。

この夏私が娘に感じたのは、「出ないやる気を待つことほど疲れるものはない」ということだ。質も量も小学校とは比べものにならないほどの夏休みの宿題。数学のドリル漢字ドリルはスルスルこなして理科社会のレポートはテーマを決めてバリバリ調べて下書きの段階である程度の方向性とポイントを押さえつつ、今年は行えない水泳の授業のレポートを教科書を見て簡単なイラストとともにまとめて、感想文の本はとっくに読んでいるからいつでも下書きを始めて、ポスター描きだって絵を描くのは好きだから楽しみつつできるはずだし、もちろん3行日記は毎日欠かさず書く。

わけがない。

そんなわけがない。
ドリル系はともかく、興味持って調べる‥ためにまずは図書館でも行こうかななんてやっているうちに2、3日はするするっと過ぎる。本を借りてきてなかなか楽しそうに読んでも着手しない。全然。理由は
「今はやる気が出ない」から。
失せ物→出ず 待ち人→現れず やる気→出ず。いや、存在せず?

気がついた。
やる気というものは元々存在するものではなく、ある程度必要にかられないと生まれてこないものなのだ。好きなことに対するやる気は泉のように湧き出るけれど、義務に対するやる気はある程度大人が仕掛けて育てて波に乗せなくてはならないのだ。「勉強」=「強いて勉める」ものである以上。
学校から出された宿題も中学受験勉強も、あくまで「出された課題」。勉強が好きで主体的に取り組む子はごく一部。大半の子は「やらなければならないから」やるのだ。

では、どうすれば少しでもスムーズに勉強に向き合えるのか?

① 遠い目標+身近なニンジン、小さいハードル

そんなことでは受験に間に合わないよ!苦手科目をなんとかしないと!あと5ヶ月しかないんだから!
なんて言っても、子供にわかるわけはない。12年そこそこしか生きてない人間にとって5ヶ月は見当もつかないくらい、遠い未来なのだ。
子供の頃私は夏休みを永遠だと思っていた。たった1ヶ月ちょっと、でも夏休みが終わる日なんて想像もつかないくらい遠い未来だった。毎日のプールやアイス。昼頃の縁側の、足の裏で暑かったこと。派手な雷鳴を、ひさしから滝のように流れ落ちる夕立をずっと眺めていたこと。実家は商売をしていたので夏休みだからと旅行に出かけるような家ではなかったけれど、それでも夏休みは特別な時間だった。絵日記、日記。私も面倒だった。「学校のプールに行きました 帰り道〇〇ちゃんとセミの抜け殻を見つけました 暑かったからアイスを2本食べました」なんて言葉は、特別な毎日をつまらなくするような気がした。
夏休みの終わりは世界の終わりくらい残念で暗い気持ちになった。(そのあとさりげなくしれっと2学期は始まるのですけれどね。そうすると意外に学校も楽しくなってくるのですけれどね。)

受験に間に合わないとか夏休みなんてすぐに終わっちゃうよなんて、あまり効果のある台詞ではないのかもしれない。大人が焦っているそんな気持ちを子供にぶつけているだけで。

志望校は遠い灯台の光として、大人が意識をして子供を導く目標、ベクトルと考えておけば良いのではないだろうか。この学校に行くとこんなことができるという青写真。部活や進学コース、短期留学、校風や制服や通学時間だって大切な要素であろう。なるべく具体的に中学生活をシュミレーションしてあげることが重要だ。

その上で今しなければならないことをこれも具体的に考える。
苦手な科目にはなかなか気持ちが向かない。
当たり前である。私とて暑い中銀行に払い込みに行くのをもう3日延ばしている。もう期限ギリギリなので後でいかなければならない。帰りにあそこの和菓子を買おうとか勝手に目標をすりかえて出かけることにする。
本当にどうにも気持ちが向かないなら、今日はここまでやったらアイスを食べる!10分だけキャッチボールをする!なんでも良いので目の前にニンジンをぶら下げてそれだけに向かう。それをとにかくくりかえしてみる。(私はボールペンで勉強しまくって、インクの減りで満足感を得ていました)
少しづつでも積み重ねればそれまでと違った景色が見えるはずだ。小テストをクリアできたり、食塩水の問題ならだいたいわかる!歴史は嫌いだけどとにかく室町時代だけはいける!とか、どんなことでも「これならわかる」ことを増やすうちに、知らないうちに小さいハードルを飛び越えたことに気づく。

② 認めること

今までと違うことができた、やろうとしている姿勢がみられたら、大人はそれを見逃してはならない。
「最後までできたね」「式がかけたね」「面積図は書けてるよ」
褒めなくてもいいのでとにかく子供のしたことを認めてあげる。
そして最後におまじないをかける。
ここまでできたら次はできるよ。
すると、本当に、できたりするのだ。点数が取れることでその教科が楽しくなることもあり得る。それが理想だけれど、そんな大きな話でなくても「売買算てバーゲンセールで役立つんだな」とか、そんなことでもいい。現実の世界と受験勉強が切り離されたものじゃないということがわかったら、「わかること=楽しいこと」と認識される。そうなればしめたもの、勉強に対する苦手意識、後回しにしている科目に対する面倒臭さはだいぶ減るのではないだろうか。

でもうまく行くことばかりではない。その時はできても、集中を保つことは難しいし気持ちにもムラがある。そこは何と言っても子供なのだ。仕方がない。
だから勉強するのだ。忘れてしまうことを恐れてはいけない。忘れたらまたやればいい。その繰り返しだけが2月1日の自信につながるのだ。

やる気の種が勝手に芽吹いて育っていってくれればいいけれど、肥沃な大地に撒かれた種ばかりではない。時には水をやり風から守ってあげなければならないことだってきっとあるのだろう。
私の生徒にも娘にも、今日も試行錯誤。

やっと仕上がった夏休みのポスター。最後は娘→太筆、私→細筆。
中学生になると画用紙も大きいのだ。
完成品を前に娘は言った。
あー、色塗るの楽しかったー!

本当に時間の流れが違うんですね。やれやれです。