[コラム]『赤ずきんちゃん気を付けて』~君の名は~

~君の名は~
プラスチックのコップから転がり出された毛玉は、木屑を敷き詰めた水槽の上に仰向けになり、ギー! と高く鳴くとそのまま動かなくなってしまった。
死んだふり?
びっくりして私も固まっていると、
「これはね、怒っているんですよ」店員のおじさんが笑いながら言った。

誕生日、クリスマス。何が欲しい?と尋ねると、ここ2年ぐらいまず必ず「生きものが欲しい」と言っていた娘。一人っ子だし、家庭の中で父母以外の存在が欲しいのだろうと理解はしつつも、お世話できるの?生き物飼ったらみんなで旅行できないよ?死んじゃったら悲しいよ?と、言っても仕方ないことを言っては延ばし延ばしにしてきた。世話を手伝う面倒を回避し、年に一度行くか行かないかの旅行を理由に、いつか死んでしまう必然だって人生のどこかで経験することなのに。全て親の怠慢。約束も1年以上果たされないまま来てしまった。これではいけないと家族で相談の上、ハムスターを飼うことにしたのだ。

私が子供の頃、家にネコが絶えたことがなかった。2年生の時に学校の帰り道白い子猫を拾って以来、家が古い一軒家だったこと、音楽教室を経営していて人の出入りが激しかったことで「あの家にはネコがいる」となると、拾った子猫を飼えないからと持ち込まれたり家の前に捨てられていたり、あるいは迷い込んだり居着いたネコが子供を産んだり。多いときは7匹ものネコが家のあちこちを好き放題に歩いていた。台所仕事をする母によじ登りずっと肩に止まっているネコ。煮干しの頭だけ残すネコ。柿の木に上れるだけ上って下りることができなくなってしまったネコ。気が強くていつも顔中傷だらけだったネコ。こたつの中はいつもネコでいっぱいで人間が遠慮して足を入れていたこと。勉強しているとノートの上に寝そべるネコ。猫の世話なら目をつむっていてもできる。

でもハムスターとなると‥
図書館で本を借りて、どんな種類がいいのか、健康で懐いてそれほど小さくなくて‥
飼うと決まってから楽しそうに色々調べる娘を見ていても、私にはもう一つクリアしなかればならないハードルがあった。

「動物をペットショップでお金を出して買う」

そのことへの抵抗だ。生き物は降って湧いてくる。私には子供の頃からそれが普通だった。
お金で命が買えるのか?ということへの疑問かというとどうも少しずれている。
「血統書」に対しての疑問は少しある。イヌでもネコでもウサギでも、品種によって「規格」があるらしい。顔の長さに対して耳の離れている比率であるとか鼻のつぶれ具合であるとか耳の垂れ具合であるとか。私にはほとんど同じに見える兄弟ウサギ、右が¥28000で左が¥85000というのはちょっとよくわからない。当然元気なら右を選んでしまうだろう。

白と茶色の5センチほどの毛玉はしばらくすると居心地悪そうにまたごそごそし始めた。
「今はこの種類はこの子だけなんですよ。女の子です。生まれてから1ヶ月半くらいかな」
なんでこんな小さなものが動くのかなと不思議になる。
この子を連れて帰ろうと一瞬で決めた時、私の中のモヤモヤした疑問もコロンと腑に落ちた。
私が抵抗を感じていたのは「ペットショップで動物を選ぶ」ことだったのだ。

1匹選ぶということは同時に他を選ばないということでもある。数学で言えば余事象、である。イヌでもネコでも檻に入れられて世話をされて、みんな同様に可愛いのに、元気な子ならと言いながら買う方は結局は外見で選ぶことになる。白がいい黒がいい茶色がいい。毛の長いのがいい短いのがいい。
選ばれなかった子はどうなるのか、あまり考えたくない。それこそ命に差はないのにこちらの胸先三寸で動物の人生(?)が決まることに抵抗を感じていたのだ。

だから欲しい品種が1匹だけだったことに感謝した。罪悪感を感じることなく、素直に出会えた。運命と思えた。

ハムスターを飼うのは初めてなんですと言うと、おじさんは「はったくん!」と若い店員さんを呼んだ。オススメのエサやトイレの砂、ハムスターの家。必要な細かいものを一緒に選んでくれた。
ごつっと後ろから何かに押された。白い大きな犬がのっしのっしと私の横を過ぎる。(娘曰く、サモエド犬という犬らしい)
ギエー!と鳴くのは、鮮やかな緑と黄色の大きなオウム。
ミーアキャット60万円(!)
ピクリともしないイグアナ。青く小さく輝く熱帯魚。
コリアンタウンの中のこのペットショップは、同じようにハムスターを見にきていた女子高生たちと、ガラス越しの子猫に中国語で話しかけるでっぷりした夫婦、飼い犬のトリミングの順番待ちをする人たちで賑わっていた。
「寒いのはダメです。なるべく暖かくして病気をしないようにしないように」
おじさんはそう言うと持参したケースの裏にペタッとホカロンを貼り付け、少量の木屑と一緒に我が家の一員となるハムスターをそっと入れた。「お家が決まったよ」ネズミ1匹に話しかけてくれるおじさんに心が温かくなる。

あまり揺らすといけないからと主人はハムスターを大切に抱えて娘に持たせなかった。私はトイレの砂やら何やらの大きな袋を抱えて、帰りの電車では落ち着かない様子のハムスターを3人して覗き込み名前は何にしようかとあれこれ考えた。(そのことに気を取られて私は荷物のいっさいがっさいを電車に忘れてしまった!)

みかん。冬にうちに来たから、みかんがいい。
新しい住処をあちこち嗅ぎ回ってパトロールする、みかん。
みかん。
声に出して呼んでみる。
なぜだろう名前をつけると、目の前のそれが突然何か特別で出会うことが当然だったようなずっと待っていたような存在に思える。
ふと娘が生まれた天気の良い寒い日のことをありありと思い出す。

元気で生まれてさえくれれば。
始めはそんな風に思っていたはずだ。それなのに成長するにつれて、人より歩くのが遅かった。言葉が遅いんじゃないか。あの子はもう字が書ける、九九ができる、走るのが速い、ピアノが上手だ、逆上がりができないのはうちの子だけだ。
気がつけば人と比べてばかり。あなたが名前をつけたその子のことを今日一度でも人と比べないクリアな目で見ることができただろうか?
将来を思って臨ませる中学受験。本人の希望はもちろんあるだろう。でもどこかで父母の期待も背負っているのではないか。少しずつしっかりしてきた背中を見て、でもやっぱり頑張ってきたのは君だよねと私は確信する。
大詰めで1日塾にこもって勉強を続ける。時間になるとお弁当を届けてくれるお母さん。終わる頃に車で迎えにきてくれるお父さん。感謝しなければならない。でも重荷に思っても欲しくない。
自分が名前をつけた余事象ではないその子が特別だから。ひたすら支えたいから。

解答用紙にまず君が書くのは。
何回も書いてきた、君の名は?
君のことを心から待っていた人たちがつけてくれた、君の名は。

切り開け。何が何でも。