さよなら、さくら
ゆでたてのブロッコリーを1つつまんで、茎の部分を食べやすい大きさに切って小皿に取り分ける。冷めたらあげようと思ったところでハッとする。
そうだった。さくらはもういないんだ。先週の今日、この秋一番冷え込んだ朝に、亡くなってしまったんだ。
寿命と言われる2年半を過ぎた頃からやはり、なんとなく動きが遅くなって、晩年はひっくり返ると起き上がれずにバタバタしていることもあった。ハムスターでも弱るのは足腰からなんだなと思った。寝床からエサ場まで来るのが億劫になったのか、エサ場の近くに床材を盛り上げて、食べるのも水を飲むのも寝たきりで自分でするようになった。
さくらちゃん、もう長くないかもよ。
娘にそう言いながらも、余計なお節介に我ながら呆れる。
幼い頃飼っていた猫が何度も亡くなるのを経験してきたので、その辛さは十分知っている。いくら覚悟したって悲しさが減るわけではないのに、いきなりの別れの辛さを少しでもやわらげたくて、無駄な心の準備を促す。
ブロッコリーが好物だったなあ。
行き場を失ったサイコロのようなそれを、私は口に放り込む。
古くからの友人の息子くんが、もう何年も不登校だという。中学生という不安定な時期にコロナ休校を経験し、そのまま何年も学校に行けなくなってしまった。中高一貫校に中学受験で入学していたため、中学を卒業してそのまま高校には入学できたけど。
さすがにもう義務教育ではないので、これ以上欠席がかさむと、留年になります。
学校からそう通達されてしまったという。
どうしたいの?
母が彼に聞くと、彼は俯いたまま「消えたい」と呟いたそうだ。
幼稚園の頃の、彼の弾ける笑顔を思い出す。10年後にこんな風に悩むことになるなんて、誰が想像しただろう。逆上がりがなかなかできない、好き嫌いが激しい、友達にすぐに手を上げてしまう。男の子軍団と女の子軍団の大ゲンカがあった。当時は割に真剣に悩んでいたようなことも、今のこの状況に比べたら取るに足らないことだと思う。
彼の生活の何が、どんな風に彼を追い詰めたのか。それを理解することはおそらく今は難しいだろうし、ましてやどうやってまた以前の生活の中に入っていけるのかなんてわかりようもない。
娘のクラスにも保健室登校の子、不登校の子はいるし、中学受験で入学した女子中学校に肌が合わなくて不登校になり、地元の公立中学に転校してきた子がいる。不登校で闇の中にいる子の多さは今や「よくあること」になってしまっている。
自分の子供の口から「消えたい」などという言葉を聞いたら、私は正気でいられるだろうか?
娘は冷たくなってしまったさくらを泣きながら小箱に納めて、好きだったエサと小さいピンクのコスモスを添えた。文字通り猫の額の裏庭を深く掘り、丁寧に葬った。雨で濡れた冷たい土の中に埋めなければならないなんて。死とは残酷だ。
学校に行けなくなって闇の中にいる彼のことを思い、かわいがっていたハムスターがいなくなってしまったことを思うと、今の心配事や未来の不安ばかりをふくらめてそればかり考えることの、何と愚かなことであろうか。
自分と家族と、友達や職場の人たちが普通に元気にしてるなんて、これは奇跡だ。
勉強足りてないぞー受験生だぞーと、気がかりは尽きないが、少なくとも私が注意するようなことではないのだ。きっと。
おいしいご飯を用意すること。今日あった出来事を話すこと。嫌なことは笑い飛ばすこと。
それ以外ない。
冷めたブロッコリーをタッパーに移しかえていると、裏庭から話し声が聞こえる。
窓から覗き見るといつもの仲良し3人。何この枝!ちょっと痛いんだけど〜!いいや折っちゃえ!きゃあきゃあ言いながら狭い場所に入り込み、並んで立つ。
ここに埋めてあげたんだ。
娘が言うと、しんとして少しの間みんなで手を合わせていた。
よかったね、さくら。みんなが来てくれて。
よかったね、娘。良い友達がいて。
何かお菓子はなかったかしらと急いで棚を開け、柿の種と源氏パイを見つける。
おやつどうぞ〜!と窓の外に声をかけた。
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