アイロンだけは
赤い糸で「形態安定」と刺繍されているタグのついた、白い半袖のシャツをハンガーから外す。アイロンが十分に温まったのを確認し、シャツを台にセットする。シワのできないように。
今日から新学期。暑い朝。時刻は7時半を回ったところ。テレビの天気予報は前橋の空を映し、中継の気象予報士は妙なパネルで今年の夏の記録的な猛暑日の数を振り返り、猛暑は去りましたが残暑は厳しいです、本日も気をつけてお過ごしくださいとにっこり笑う。
夏休みの宿題は済んだの？提出物はカバンに入れた？
娘には昨夜うるさいくらいに言ったくせに、私は夏のルーティーンのアイロンかけをすっかり忘れていた。暑さのせいにしたいところだけれど、要するに夏休みボケなのだ。学校が休みなものだから、「シャツにアイロンをかける」という習慣が私の生活からすっかり抜け落ちてしまい、9月1日の朝にハッとするという始末。
ソファーで二度寝を決め込んでいる娘をちらりと見て、お気に入りのコードレスアイロンを滑らせる。まずは襟を裏側から。それから右前身ごろ、背中部分。いつもの手順通り。
1学期、娘は大きく揺れていた。
不条理すぎる学校の英語の先生。細かい指示が多く、夏休みの宿題は「今までの総復習の問題集」の100ページ超える量を生徒全員課せられた。英検2級を取得した娘に「am are is」もなかろうと思う。習熟度別のクラス編成なんて、建前だけなんだと思わざるを得ない。
そういうことをもろともせず適当に流せれば良いのだけれど、娘はがっちり組み合ってしまい、学校の先生に対して不信感を募らせ、悩み苦しんだ挙句テストにも集中できず1学期は成績を落とした。塾の面談では「1学期は内申を下げ、また2学期に戻す中学が多いんですよ」と言われていたのでそれほど気にはならないけれど、内申点をニンジンに生徒を管理しようとしているのかもしれないと思うと、雲ひとつない青空とは裏腹に心には暗雲がたれ込める。新学期の朝なのに。乗り越えられるだろうか。ソツなく穏やかに過ごし、受験勉強に向かえるだろうか。
去年から内申点の判断基準は「授業態度」をより重視したものになった。提出物はもちろんのこと、授業中の発言回数をカウントし、それを点数化する先生まで出始めた。「挙手したけれど当てられない人はどうなるんですか」と生徒が質問しても、その辺りは曖昧になったまま。
1学期の最後に催された進路説明会。
配布された分厚い冊子には、都立高校の入試(一般入試)の仕組みが細かく記されていた。
・総合得点 1020点 内訳は以下の通り
① 学力検査点 700点
100点×5=500点 → 700点に換算
② 内申点 300点
(主要5教科の和)＋(副教科4教科の和)×2＝65点(オール5の場合) → 300点に換算
③ 英語スピーキングテスト 20点
令和5年より実施。少々複雑な手順で事前に登録、その上で11月にテストをする。
クーラーのよく効いた体育館でその複雑さに気が遠くなりかけているのは私だけではなかったはずだ。
いや、私の心を重くしたのは、その入試制度の複雑さではなく、「内申点上げておくのに越したことはありません、夏休み明けにしっかりと提出物を出して、2学期以降の授業に前向きに取り組むこと。夏休みは生活のリズムを崩さず1学期の復習をし2学期に臨んでください」という、学年主任の先生の言葉だった。
反抗期ど真ん中の娘にそんな正論は通らないだろうなと、帰り道は日傘をさす手も重く、歩みはのろく。
先ほどの話を頭の中で反芻し、娘の内申点を計算し、ハッとする。
つまり、仮に成績が1落ちると、5教科では5点くらい、4教科では9点落ちるということになるのだな。
そして私がまず感じたのは「成績が1下がっても意外に影響ないんだな」ということだった。もちろん塵も積もれば山となるので侮れないことではあるが、娘のように、提出物が少し遅れたくらいで嫌味を言われ(少なくとも娘はそう感じている)、ムシャクシャして何も手につかないという心のロス、やる気の低下に比べたら5点は大したことではないな？と。
当日の得点500点満点→換算得点700点なら、×1.4なので、1問5点とするとそれだけで7点になるということになる。実力をつける方が精神衛生上良いのではないだろうか。将来に対しても、今の閉塞した気持ちを打ち破るにしても。
提出物はどうでも良いなどと言うつもりはない。生徒全員に平等に課せられている、最後の義務だ。今後、アルバイト先で、会社で、不条理なことは山ほどあるだろう。その度にまともにやり合っていたら身がもたないよ。さらりとやり過ごす局面があるのだということを知り、自分なりの乗り越え方を模索してほしい。
アイロンからシューっと勢いよく蒸気が出て、ヤケドしそうになる。
うーん！と大きく伸びをして娘がやっと起き上がった。
おはよう。ご飯できてるよ。
ゾンビのように椅子に座り、貧血気味の顔でしばらくボーッとしてからおもむろにパンを手に取る。
おもしろい、ほんとうにきれいにしわが伸びるんだね
半分寝ぼけまなこでアイロンかけをながめる。
そうだよ。すごいでしょう。最近のシャツは、アイロン不要の「形状記憶」だからそんなにシワになる素材じゃないんだけどね。
それでもまっすぐピカピカの白いシャツはいいものだよ。
アイロンだけはかけたいんだよね、お母さんは。(どんなに喧嘩中でも)
頑張れ2学期。
心のシワも伸びますように。
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